セレッソ大阪クラブの歴史
前身はヤンマーディーゼルサッカー部。1957年に創部し、JSLの創設とともに関西代表として参加した名門。JSL時代には、釜本邦茂やネルソン吉村らを擁したチームはリーグ4回、JSLカップ2回、天皇杯3回を獲得し関西の雄として輝いた。
1993年〜現在
1993年 - ヤンマーディーゼルサッカー部を母体としてセレッソ大阪を立ち上げる。
12月6日 - 中ノ島ロイヤルホテルにてヤンマーディーゼル・日本ハム・カプコンなどの共同出資による新運営会社「大阪サッカークラブ株式会社(英語表記:OSAKA FOOTBALL CLUB CO.,LTD)」の設立と公募により決定したチーム名「セレッソ大阪」を発表。大阪サッカークラブ株式会社の初代社長にはプロ化推進室長だった鬼武健二が就任。
1994年 - 早期Jリーグ昇格を見据え選手の大幅補強とブラジルからパウロ・エミリオをセレッソ大阪初代監督として迎える。JFLで優勝。天皇杯ではJFL所属ながらもヴェルディ川崎、浦和レッズ、横浜マリノスらJリーグ勢を次々と破り決勝進出。タイトルを狙うもベルマーレ平塚に 0-2 で敗れ準優勝に終った。1995年からJリーグ昇格。
当時のメインスタジアムは長居公園陸上競技場に隣接した長居第2競技場だった。これは長居競技場が1997年の国民体育大会(なみはや国体)開催に伴う全面改修工事を行ったため。しかし、Jリーグの開催基準に適合しないため、1994年夏季から改修工事を施し、この年の後半戦にバックスタンドを座席に変更。1995年の開幕時にナイター照明塔と電光掲示板を設置し改修を完了させている
3月8日 - 神戸市立中央球技場(現・神戸ウイングスタジアム)にウルグアイの名門ペニャロールを迎えてセレッソ大阪としての旗揚げ戦を行う。結果は 0-0 の引き分け。
10月20日 - 最終節前、台風の影響で延期になっていた藤枝(現・アビスパ福岡)との試合を尼崎記念公園にて戦う。セレッソはこの試合前時点で単独首位。勝てばJリーグ昇格圏の2位以内はほぼ確定だったが、同時に負ければ自力昇格を失う試合でもあった。試合は90分をスコアレスドローで終える緊張感高まる展開になったが延長後半12分、見崎充洋による決勝ゴールで事実上のJリーグ昇格が決まった。
10月23日 - JFLの最終節、コスモ石油四日市戦を勝利し柏レイソルを抑えてJFL優勝。Jリーグ昇格に花を添える。
1995年 - Jリーグ加盟。
森島寛晃がJリーグのベストイレブンを獲得。
1996年 - 成績不振によりエミリオが監督が辞任。後任はコーチだった楚輪博が監督に昇格。
7月3日 - ナビスコカップのアビスパ福岡戦で8得点。チーム最多得点記録。
7月27日 - 長居スタジアムが改修終了。それにともないセレッソ大阪のホームスタジアムも長居第2競技場から長居スタジアムへと変更。こけら落しとしてブラジルの名門ボタフォゴを招き国際親善試合を行う。結果は 1-3 でセレッソの敗戦。
5月11日から10月2日 - リーグ戦で5ヶ月間10試合に及ぶ連敗を記録。チーム連敗最長記録。
1997年 - 監督に当時ブラジルの若手有望監督だったレヴィル・クルピを迎える。カプコンが出資から撤退。
1998年 - 松木安太郎が監督に就任。リーグ戦では 34試合中 13試合が 3失点以上という異様な失点のシーズンとなった。韓国代表選手の黄善洪が入団。
4月15日 - 長居でのジュビロ磐田戦で 1-9 の敗戦。Jリーグ最多失点・得点記録。
8月8日 - 長居での柏レイソル戦で 7-5 の敗戦。試合辺りのJリーグ最多得点記録。
1999年 - レネ・デザイェレが監督に就任。
5月8日 - 対名古屋グランパスエイト戦は、長居スタジアム・長居公園第2陸上競技場ともに「国際グランプリ陸上・大阪大会」に使用する関係で使えず、会場を近鉄花園ラグビー場に変えて行った。これには当時関西にJリーグの公式戦基準のサッカー専用グラウンドがなかった(神戸中央球技場が改修工事中だった)ことから、関西のファンに球技専用グラウンドでサッカーを楽しんでもらいたいという趣旨があるといわれている。
黄善洪がJリーグの得点王とベストイレブンを獲得。
12月 - 天皇杯を前にレネ監督が辞任。辞任の理由はレネ監督のプライベートなトラブルといわれている。後任は戦術面を担当していた副島コーチが監督代行としてチームを指揮。
2000年 - 前年に監督代行として天皇杯の指揮をとった副島博志が監督に就任。
1月29日 - 大阪サッカークラブ株式会社の代表取締役社長が前任の鬼武健二から藤井純一に交代。鬼武健二は会長に就任。
1月31日 - バイエルン・ミュンヘンと3年間のアドバイザリー契約を結ぶ。3年後の2003年からは単年契約となったが2005年を最後に契約を満了。以後バイエルン・ミュンヘンは浦和レッズと業務提携を結ぶ。
3月30日 - 大阪市議会において大阪市によるセレッソ大阪への1千万円の出資が承認。
5月27日 - 西澤明訓と森島寛晃の軸を中心に西谷正也と盧廷潤の強力なサイドアタックでリーグを席巻。あと1勝で1stステージ優勝というところまでいきながら最終戦で川崎フロンターレにVゴールで敗れステージ優勝を横浜F・マリノスにさらわれる。1stステージの成績は2位に終わった。
森島寛晃がJリーグのベストイレブンを獲得。
2001年 - 1stステージの成績不振から強化部・監督が相次いで辞任し、その影響からシーズン途中に契約し1ヶ月も経っていない外国人選手を次々と登録抹消して新たな外国人選手と契約するなどチームが大混乱をきたす。J1で年間成績最下位となりJ2降格したがその結果は当然の帰結と言えよう。天皇杯で二度目の決勝進出も清水エスパルスに延長の末2-3で敗れ、またもや準優勝に終わる。
7月27日 - 強化担当だった大西忠生副社長が成績不振を理由に辞任退職。
8月20日 - 監督の副島博志が成績不振を理由に辞任。後任はジョアン・カルロスが就任。
11月3日 - 対FC東京戦の敗戦によりJ2降格が決定。監督のジョアン・カルロスがこれを受けて辞任。後任にはコーチだった西村昭宏が監督に昇格。
しかし、J2降格が決定してから天皇杯の決勝に進出するまでは7連勝であった(この中には天皇杯の準々決勝でこの年のJリーグ王者であった鹿島アントラーズを下した試合もあった)。
2002年 - J2で2位となり1年でのJ1復帰を果たした。この年はワールドカップシーズンだったが J2では試合日程の編成に日本代表の強化試合や合宿に対する配慮がまったく行われず、森島・西澤・尹晶煥ら各国の代表選手不在という苦しいチーム編成で日程をこなす事となった。ただし代表選手不在により大久保嘉人の出場機会が増え、彼の大きな成長を促すシーズンともなった。
2月25日 - 未明に大阪ミナミで眞中靖夫が暴漢に襲われ頭蓋骨前頭部にひびの入る重症を負う。
3月21日 - この日の昼間には長居第2競技場でJ2のセレッソ大阪と川崎フロンターレとの試合を行い、夜には隣接する長居スタジアムで日本代表とウクライナ代表との試合が行われたため、セレッソとしては選手・ホームスタジアム・関心など全て日本代表に奪い取られる最悪の日程となった。
11月16日 - 最終節の一つ手前の43節でJ1昇格を争い、そのシーズンで一度もセレッソが勝てなかったアルビレックス新潟との直接対決。1994年Jリーグ昇格の藤枝戦と同じく勝てばJ1昇格が決定だが負ければ自力昇格が無くなる試合にセレッソが 3-0 と勝利しJ1昇格を決めた。
2003年 - 1stステージは健闘したが、2ndステージに入ると勝てなくなり、2001年にJ2降格が決まってから指揮を執っていた西村昭宏監督はシーズン途中で解任となったが、ここから監督交替のオンパレードとなる。また三度目の天皇杯決勝に進むもジュビロ磐田に0-1で敗れ、またしても準優勝に終わる。
2004年 -1stステージは相次ぐ監督交替もあって最下位に終わる。 2ndステージからは大分トリニータで監督を務めた小林伸二が監督に就任したが、西村から数えてわずか9ヶ月ほどで6人が監督を務める異常事態となった。しかし、一丸となったチームは12位に、年間順位でも最終節で柏レイソルに逆転し15位となんとか残留に成功した。
2005年 - 当初9位を目標としていたが、積極的な補強と守備の立て直しが奏功し快進撃を続け、第33節でガンバ大阪を抜いて首位に立ったが、勝てば優勝が決まる最終節のFC東京戦で後半44分の失点によって引き分け、またも優勝を逃してしまった。翌朝の朝日新聞には「長居の悲劇」との見出しが掲載された。最終順位は5位だったが、後半戦(第18節〜最終節)に限れば10勝1敗6分け、第18節のG大阪戦の敗戦を最後に16試合を負け知らず(Jリーグ無敗最長記録)で乗り切った。天皇杯も含めれば、準決勝で清水エスパルスに敗れるまで20試合負けなしだった。
2006年−開幕から不振が続き、小林伸二監督を4月18日付で解任し、塚田雄二を新監督に就任して巻き返しを図るが、依然として波に乗れていない。
8月13日 - ジュビロ磐田から名波浩がレンタル移籍で加入。
1993年〜現在
1993年 - ヤンマーディーゼルサッカー部を母体としてセレッソ大阪を立ち上げる。
12月6日 - 中ノ島ロイヤルホテルにてヤンマーディーゼル・日本ハム・カプコンなどの共同出資による新運営会社「大阪サッカークラブ株式会社(英語表記:OSAKA FOOTBALL CLUB CO.,LTD)」の設立と公募により決定したチーム名「セレッソ大阪」を発表。大阪サッカークラブ株式会社の初代社長にはプロ化推進室長だった鬼武健二が就任。
1994年 - 早期Jリーグ昇格を見据え選手の大幅補強とブラジルからパウロ・エミリオをセレッソ大阪初代監督として迎える。JFLで優勝。天皇杯ではJFL所属ながらもヴェルディ川崎、浦和レッズ、横浜マリノスらJリーグ勢を次々と破り決勝進出。タイトルを狙うもベルマーレ平塚に 0-2 で敗れ準優勝に終った。1995年からJリーグ昇格。
当時のメインスタジアムは長居公園陸上競技場に隣接した長居第2競技場だった。これは長居競技場が1997年の国民体育大会(なみはや国体)開催に伴う全面改修工事を行ったため。しかし、Jリーグの開催基準に適合しないため、1994年夏季から改修工事を施し、この年の後半戦にバックスタンドを座席に変更。1995年の開幕時にナイター照明塔と電光掲示板を設置し改修を完了させている
3月8日 - 神戸市立中央球技場(現・神戸ウイングスタジアム)にウルグアイの名門ペニャロールを迎えてセレッソ大阪としての旗揚げ戦を行う。結果は 0-0 の引き分け。
10月20日 - 最終節前、台風の影響で延期になっていた藤枝(現・アビスパ福岡)との試合を尼崎記念公園にて戦う。セレッソはこの試合前時点で単独首位。勝てばJリーグ昇格圏の2位以内はほぼ確定だったが、同時に負ければ自力昇格を失う試合でもあった。試合は90分をスコアレスドローで終える緊張感高まる展開になったが延長後半12分、見崎充洋による決勝ゴールで事実上のJリーグ昇格が決まった。
10月23日 - JFLの最終節、コスモ石油四日市戦を勝利し柏レイソルを抑えてJFL優勝。Jリーグ昇格に花を添える。
1995年 - Jリーグ加盟。
森島寛晃がJリーグのベストイレブンを獲得。
1996年 - 成績不振によりエミリオが監督が辞任。後任はコーチだった楚輪博が監督に昇格。
7月3日 - ナビスコカップのアビスパ福岡戦で8得点。チーム最多得点記録。
7月27日 - 長居スタジアムが改修終了。それにともないセレッソ大阪のホームスタジアムも長居第2競技場から長居スタジアムへと変更。こけら落しとしてブラジルの名門ボタフォゴを招き国際親善試合を行う。結果は 1-3 でセレッソの敗戦。
5月11日から10月2日 - リーグ戦で5ヶ月間10試合に及ぶ連敗を記録。チーム連敗最長記録。
1997年 - 監督に当時ブラジルの若手有望監督だったレヴィル・クルピを迎える。カプコンが出資から撤退。
1998年 - 松木安太郎が監督に就任。リーグ戦では 34試合中 13試合が 3失点以上という異様な失点のシーズンとなった。韓国代表選手の黄善洪が入団。
4月15日 - 長居でのジュビロ磐田戦で 1-9 の敗戦。Jリーグ最多失点・得点記録。
8月8日 - 長居での柏レイソル戦で 7-5 の敗戦。試合辺りのJリーグ最多得点記録。
1999年 - レネ・デザイェレが監督に就任。
5月8日 - 対名古屋グランパスエイト戦は、長居スタジアム・長居公園第2陸上競技場ともに「国際グランプリ陸上・大阪大会」に使用する関係で使えず、会場を近鉄花園ラグビー場に変えて行った。これには当時関西にJリーグの公式戦基準のサッカー専用グラウンドがなかった(神戸中央球技場が改修工事中だった)ことから、関西のファンに球技専用グラウンドでサッカーを楽しんでもらいたいという趣旨があるといわれている。
黄善洪がJリーグの得点王とベストイレブンを獲得。
12月 - 天皇杯を前にレネ監督が辞任。辞任の理由はレネ監督のプライベートなトラブルといわれている。後任は戦術面を担当していた副島コーチが監督代行としてチームを指揮。
2000年 - 前年に監督代行として天皇杯の指揮をとった副島博志が監督に就任。
1月29日 - 大阪サッカークラブ株式会社の代表取締役社長が前任の鬼武健二から藤井純一に交代。鬼武健二は会長に就任。
1月31日 - バイエルン・ミュンヘンと3年間のアドバイザリー契約を結ぶ。3年後の2003年からは単年契約となったが2005年を最後に契約を満了。以後バイエルン・ミュンヘンは浦和レッズと業務提携を結ぶ。
3月30日 - 大阪市議会において大阪市によるセレッソ大阪への1千万円の出資が承認。
5月27日 - 西澤明訓と森島寛晃の軸を中心に西谷正也と盧廷潤の強力なサイドアタックでリーグを席巻。あと1勝で1stステージ優勝というところまでいきながら最終戦で川崎フロンターレにVゴールで敗れステージ優勝を横浜F・マリノスにさらわれる。1stステージの成績は2位に終わった。
森島寛晃がJリーグのベストイレブンを獲得。
2001年 - 1stステージの成績不振から強化部・監督が相次いで辞任し、その影響からシーズン途中に契約し1ヶ月も経っていない外国人選手を次々と登録抹消して新たな外国人選手と契約するなどチームが大混乱をきたす。J1で年間成績最下位となりJ2降格したがその結果は当然の帰結と言えよう。天皇杯で二度目の決勝進出も清水エスパルスに延長の末2-3で敗れ、またもや準優勝に終わる。
7月27日 - 強化担当だった大西忠生副社長が成績不振を理由に辞任退職。
8月20日 - 監督の副島博志が成績不振を理由に辞任。後任はジョアン・カルロスが就任。
11月3日 - 対FC東京戦の敗戦によりJ2降格が決定。監督のジョアン・カルロスがこれを受けて辞任。後任にはコーチだった西村昭宏が監督に昇格。
しかし、J2降格が決定してから天皇杯の決勝に進出するまでは7連勝であった(この中には天皇杯の準々決勝でこの年のJリーグ王者であった鹿島アントラーズを下した試合もあった)。
2002年 - J2で2位となり1年でのJ1復帰を果たした。この年はワールドカップシーズンだったが J2では試合日程の編成に日本代表の強化試合や合宿に対する配慮がまったく行われず、森島・西澤・尹晶煥ら各国の代表選手不在という苦しいチーム編成で日程をこなす事となった。ただし代表選手不在により大久保嘉人の出場機会が増え、彼の大きな成長を促すシーズンともなった。
2月25日 - 未明に大阪ミナミで眞中靖夫が暴漢に襲われ頭蓋骨前頭部にひびの入る重症を負う。
3月21日 - この日の昼間には長居第2競技場でJ2のセレッソ大阪と川崎フロンターレとの試合を行い、夜には隣接する長居スタジアムで日本代表とウクライナ代表との試合が行われたため、セレッソとしては選手・ホームスタジアム・関心など全て日本代表に奪い取られる最悪の日程となった。
11月16日 - 最終節の一つ手前の43節でJ1昇格を争い、そのシーズンで一度もセレッソが勝てなかったアルビレックス新潟との直接対決。1994年Jリーグ昇格の藤枝戦と同じく勝てばJ1昇格が決定だが負ければ自力昇格が無くなる試合にセレッソが 3-0 と勝利しJ1昇格を決めた。
2003年 - 1stステージは健闘したが、2ndステージに入ると勝てなくなり、2001年にJ2降格が決まってから指揮を執っていた西村昭宏監督はシーズン途中で解任となったが、ここから監督交替のオンパレードとなる。また三度目の天皇杯決勝に進むもジュビロ磐田に0-1で敗れ、またしても準優勝に終わる。
2004年 -1stステージは相次ぐ監督交替もあって最下位に終わる。 2ndステージからは大分トリニータで監督を務めた小林伸二が監督に就任したが、西村から数えてわずか9ヶ月ほどで6人が監督を務める異常事態となった。しかし、一丸となったチームは12位に、年間順位でも最終節で柏レイソルに逆転し15位となんとか残留に成功した。
2005年 - 当初9位を目標としていたが、積極的な補強と守備の立て直しが奏功し快進撃を続け、第33節でガンバ大阪を抜いて首位に立ったが、勝てば優勝が決まる最終節のFC東京戦で後半44分の失点によって引き分け、またも優勝を逃してしまった。翌朝の朝日新聞には「長居の悲劇」との見出しが掲載された。最終順位は5位だったが、後半戦(第18節〜最終節)に限れば10勝1敗6分け、第18節のG大阪戦の敗戦を最後に16試合を負け知らず(Jリーグ無敗最長記録)で乗り切った。天皇杯も含めれば、準決勝で清水エスパルスに敗れるまで20試合負けなしだった。
2006年−開幕から不振が続き、小林伸二監督を4月18日付で解任し、塚田雄二を新監督に就任して巻き返しを図るが、依然として波に乗れていない。
8月13日 - ジュビロ磐田から名波浩がレンタル移籍で加入。



